1984年。スペースシャトルが宇宙に飛び立ち、福沢諭吉の1万円札が発行された年。私は大学を卒業し、株式会社リクルートに入社しました。学生の頃からアルバイトとして働かせてもらっていたこの会社の『情熱』に惚れ込んだのです。組織とはなんぞや、働くとは?成長とは?‥‥と連日連夜の熱い議論が交わされ、飲みの席でもとどまることなく、真剣に、夢中に、ときに突拍子もないことを言い出しては実現させていく。その中心にいるのは、自分とさほど年の離れていない、若き非凡な先輩志士たち。学生の私にはたまらなく大きな刺激でした。社会に出てもこんなに面白い大人たちと働いていたい。アルバイト先を就職先に選んだのにはそういった思いがあったのです。
「組織の採用を真剣に考える」リクルートは、お人好しにお節介、なんでも首を突っ込みたがる、なんでも成果を出したがる。そんな猛者たちが活躍する会社でした。私もきっと、同じ性質だったんでしょうね。
思い起こせば、お節介なキャラは生まれ育った環境も影響しているかもしれません。実家は惣菜屋を営んでいました。お客さんに手頃で美味しい惣菜を届けたい、と毎朝早朝から台所に立つ両親の背中を見て育ちました。親父が仕込んだカボチャの煮つけは絶品なんです。私も小遣い稼ぎのために手伝いによく立ちましたよ。「オマケつけとくからよ」なんてお節介を働く親父の顔はイキイキしていましたし、喜ぶお客さんを表情を目にすると、なぜだか私まで誇らしくなりました。
そんな親父の血を引いているからでしょう。中学生の頃、教師から不良生徒の面倒を見るよう頼まれても、喜んでそれを引き受けていました。世話焼きを期待される役回りなんだろうな、とすんなり受け入れられましたから。
落語研究会に所属した大学時代には、会場の手配やら人員集めやら、活動を盛り上げるためにあちこち奔走したもんです。自分の企画した会が盛り上がるというのが嬉しくって。味を占めたわけじゃありませんが、リクルート入社後も、宴会部長としての活動に励んだことをよく覚えています。
配属されたのは新卒採用の広報を行なう部門。営業として企業に採用企画を提案する仕事でした。新人だろうが平社員だろうが関係なく、経営層を相手にプレゼンするスタイルはリクルートではあたりまえの風景でしたし、私も例外ではありません。1年目からたっぷり洗礼を受けました。クライアントの業種理解、職種理解のための情報を収集し、企画を練り上げ、提案する。そりゃはじめは緊張もしましたが、経験は人を育てます。
「若いのによくやるね」と称賛されるたび、そして何百万もの案件が受注になるたび、私は自信を高めていきました。
コレは自慢なんですが、2年目には全国トップの成績を残し、25歳でリーダーを任され、当時付き合っていた彼女とも結婚しました。バブル景気で世間が沸き立つ時代です。
順調な業績、昇進、自己成長、幸せな生活。どこまででも進み、何でも達成できそうな気分でした。
しかし30を目前に課長に昇進した頃から、世の中の空気は少しずつ陰りはじめます。地価や株価の暴落が加速し、バブル崩壊に突入したのです。
気前よく申込書にハンコを押してくれた部長さんも、「キミすごいな」と感心してくれたあの社長も、なかなか首をタテには振ってくれません。そのときに気付きました。自分の実力が認められて大きな受注も任せられていると思い込んでいたけれど、それは時流の波に乗っかっていただけなんだと。それがとても悔しくて…。景気が低迷すれば切り捨てられる、そんな仕事がしたいんじゃない。不安定なときこそ頼られる存在でいたい。
もっと顧客企業のためになる役割を担いたい。それは何だろう?と私は考えました。
人を採るためだけにアイデアを打ち出しても、企業の中身が伴わっていなければ、望むような組織の姿になっていかない…。それなら会社の仕組みから、経営の内部から変えていけるような仕事がしたい!!!と思うようになったのです。
30代突入とともに、私は採用企画の枠を超えた組織づくりから携わっていくようになります。
そんな時期、とある大手企業からちょうどよいオファーが舞い込んできました。
『受け身の姿勢が蔓延する社内を活性化させたい』と。
社内の若手を集めて議論させてみたり、適職人材のジャッジをして指摘したり。物怖じしない私の動きぶりには先方役員の反応も上々でした。正面切って指摘できるのはオレしかいない!! そんな使命感に燃えていたのです。
しかし私がどれだけ必死に行動し、訴え、躍起になれど、組織内の受け身な姿勢は変わらないままでした。だから私は社長に伝えたのです。
「御社が抱える数々の課題、これは長年のぬるま湯体質が生み出した結果ではないでしょうか」と。
あの時の私は「さすがだね。そこまで正直に指摘してくれる存在は君しかいない。もっと君の意見を聞かせてくれ」そう返答がくることを期待していましたし、そうなるはずだと信じていました。が‥‥、
「耳の痛いこと言ってくれるのはありがたい。けど、狙ってやっちゃあいけないよ」。
予想外の言葉に、私は面食らいました。しかも言葉の意味がよくわからなかった。後日、私はリクルートの上司に打ち明けました。役員にも認められる私の献身的な働きぶり。それが伝わらないもどかしさ。すると上司は言いました。
「オマエ、いったい誰のために動いているんだ?」。
ハッとしました。あの時社長が伝えたかったことと、上司の言葉の真意は同じです。
「『大企業の役員に認められること』が目的になっていやしないか」と。
思い起こせば、私が『この会社はぬるま湯体質だ』と判断してしまったのは、その会社の女性社員から言われた言葉でした。
「柳沢さん、口では『現場が自発的に動くような会社にしましょう』って言いながら、実際は上からモノ言って私たちにやらせてるだけですよね」
彼女の言葉の裏には「この組織改革に、私たち社員の意思はあるんですか?」と、訴えていたんだと気付かされました。
当時の私を突き動かしていたのは「顧客課題を解決したい」という強い想いだったはずなのに。いつの間にかそれは自分のために置き換わっていたのです。
相手の話を聞きはするものの、勝手に解決策を判断し、勝手に引っ張っていく。課題解決の答えは、私の想いではなく、社員一人ひとりの中にあるのに、それを直視せず『自分が主役』になっていました。何とかしようとアイデアを模索し、そのプランの内容を認めてくれる「偉い人」のためにやっていたのです。
クライアントの役員相手に、こんなズバズバと指摘でき、社内の言えない空気を突破できる。『大企業を動かしている』という実感のためにやっている自分。
認められる自分のため、「顧客のため」と言いながら自分の成果のため。そんな考えを一掃させてくれる経験でした。
本当の本当に、クライアント本位の仕事がしたい!と初心に戻りました。この業界に足を踏み入れてから10年と少し。あのタイミングがやり直すチャンスでした。
1995年、34歳になった年。営業ではなく「企業の組織改革を支えるトレーナー」として再スタートを切るために、東京にあるリクルートの研究室(後のリクルートコミュニケーションエンジニアリング=RCE)に異動願いを出しました。
私が前述のクライアント企業にあれこれと口を挟んだ末、一人の管理職が地方へ異動になったと聞きました。その人事が彼にとってどういうものだったのか、本当のところは定かではありません。でも私は痛いほど実感したのです。これは人の人生を左右する仕事だ、私個人の想いで突き進む仕事ではない、と。社員一人ひとりを大切にし、会社が前進することを誰よりも本気で考えなければならない仕事なのだ、と。
そこでまず学んだのは、本質を理解することでした。
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なぜあの時期に投資をしたのか、事業転換に着手したのか、組織改革を行なったのか。会社の歴史をひも解き、その決断にあった裏話を聞くと、経営陣や社員の気持ち、めざすべき姿が見えてくるものだ。
「正解はこうだからこの方法で組織を変えましょう」という伝え方ではなく、人の価値観・本質から一緒に方向性を探っていかなければ付け焼刃的になる。
社員一人ひとりが「自分たちの手で組織を良い方向へ持っていこう」と動き出してこそ組織は前に進む。
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研究所配属になった私は、後の私の礎となる「コミュニケーションエンジニアリング」の考え方を頭に叩き込みました。胸に刻み込みました。
会社という塊の調整ではなく、単純な正解探しでもなく、単なる合理化を目指すのでもなく、属する一人ひとりの考え方に寄り添う姿勢。目の前の人が喜ぶことに一筋だった昔の自分に立ち返ったようでした。そして35歳。RCEから、トレーナーとしてデビューを果たしました。
それから10数年。いくつもの会社の支援に携わりました。それぞれの組織が前に進もうとする、ときに苦しくもある期間を共にしてきました。1番の理解者になるという気概を持って、一社一社に接してきました。
社長以外が口を閉ざす会議が、社長が口を挟む余地もないほど盛り上がる会議に生まれ変わり。
自社の強みがわからないと弱腰になっていた会社が新たな販路拡大で活気づき。
他部署との関わりが無いに等しかった社内で全社連携での業務効率化が実現しました。
変化が生まれたのは支援した会社だけではありません。私にもあったのです。トレーナーとして多くの企業の支援に携わるうちに、新たな道を歩みたいという想いが大きくなっていったのです。
自分の目が届く規模の会社と深く深く関わっていきたい。
単発ではなく継続したサポートを提供し、会社が自走できるようになるまで伴走したい。
社長と二人三脚、じっくり会社の仕組みづくりをサポートしたい。
自分の身に染み付いた「コミュニケーションエンジニアリング」の考え方を軸に、さらに一社一社に寄り添ったプログラムを考えたい。
50代に差し掛かっても、お客様のために走り続けたい気持ちは減るどころか増していく一方。それならば、また挑戦してみよう。
2014年、53歳を迎えた年。
私はヒューマンサポートの前身である、株式会社ヒューマンコラボレーションを立ち上げました。
そして、今。
クライアントの真の幸せな未来を考える仕事をして、私自身も幸せなのです。
私、柳沢義典は組織の持つ心の奥へ。寄り添います。